パオパオだより

2012年07月17日(火)

33年前と22年前 [昔話]

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 昨日、いなかの家の草刈りと倉庫の整理に行ってきた。家の前の草は、克己のおっちゃん(うちの本家で私のまたいとこ)と隆雄兄さん(姉の夫)がもうやってくれていた。
 前に屋根のトタンがはがれて水浸しになった倉庫の整理。思っていたよりは雨の被害は少なかった。父から預かっていたアルバムが一番心配だったが無傷。本当によかった。

 私の「私物」と書いてある段ボール箱を整理しているといろいろなものが出てきた。おおかたは本。ぬれてしまったものはなかったが、この際だったのでほとんど古紙回収に出すことにした。どうしても捨てられないのは、「カフカ全集」と「倉橋由美子全作品」。この二つは私の原点みたいなものなので、できれば棺おけまで持って行きたい。
 あのころ買った本は、あっという間にすぐ読み終わった。すごい集中力があった。それに比べて今は、途中まで読んで放置したままの本が数百冊・・・。

 「この版画、だれのん?」
 いっしょに整理を手伝ってくれていた姉が言った。
 「いや、すごいやん。どっかでこうたやつかなあ・・・」と私。
 いやいや、よく見てみると「K」のサイン。これで思い出した。これは私があこがれていた版画家・徳力富吉郎氏(一時期、私のいなか・花背別所に住んでおられた)の「富」のサインを真似たものだ。(「K」はKoujiのK。) この前後10年近く、私の版画の年賀状は続いたはずである。
 残っているのは失敗作で、出すことのできなかったもの。そう思うと、33年前23歳の私はすごい。

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 同じ版画の色ちがい(これも失敗作)。この年は2版5色刷りに挑戦した。
 大学を卒業し、仏教大学の通信教育で小学校教員免許を取っていたころ。時間がいっぱいあったんですね。(今もか・・・。)

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 1版目がこんな感じ。これにもう1版をかぶせる。
 これするのに何日かかってたんやろう。
 だれか私の版画の成功作を残してくれてへんかなあ。33年前やからなあ、そら無理な話か。

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 ポロッと出てきた1990年の写真。
 このとき、廉の素(?)がお腹の中に。ヨメさんは20kmで入賞。

 写真を見た廉の感想。
 「顔がまるすぎ。歯が出すぎ。」

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 22年前34歳の私は毛がフサフサ。
 「髪の毛、かえってきてくれー・・・。」

 この少しあとヨメさんの妊娠が分かり、真剣に「教師辞職」を考えだしたころ。
 「生まれてくる子どもの前で胸をはれる父でありたい・・・。」

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 8ひきいたうちのネコの中で、一番年上できれいでかわいかったキャロちゃん。
 「京都キャロット」の名前はここからつけたんですよ。

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 ほんま、かわいいでしょ。
 このときで5歳くらいかな。

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 キャロちゃんの娘、ルビちゃん。このとき4歳。
 2002年、8ひきの中で一番最初に死んじゃった。それでも16歳まで生きてくれた。うちのネコはみんな長生きしてくれた。ありがとね。

 うーん、キャロちゃんもルビちゃんも地獄行きの可能性がそこそこあるので、「地獄行き確実」の私とはもうすぐ会えるかもしれない。そう思うと、地獄行きも楽しみやねえ・・・。

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2011年04月01日(金)

1991 [昔話]

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 1991年4月1日。
 ふーん、あれからちょうど20年か。

 今日、新聞を見て思い出した。「エイプリルフール」のことではない。毎年この日に新聞発表される「京都の教職員異動」。ちょうど20年前の今日、私の小学校教員退職が新聞に載った。

 この事実を知れば嘆くであろう唯一の人、私の母はこの3ヶ月前に亡くなっていた。話せば分かってくれる父には、この前の日(3月31日)に説明に行った。父は、私の予想通りの反応だった。

 文部省と京都市教育委員会の圧力に、ただの一人も抵抗することのなかった京都市小中学校の校長。あんな「成れの果て」のような人間だけにはなりたくない。

 私が話し終わり帰りかけるころ、父はひと言だけ私に言った。
 「だいじょうぶか。」

 「へへへー」
 私はいつもどおりヘラヘラしながら帰っていった。

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 そのとき、ヨメさんは(当時「ヨメさん」なんて言っていたのだろうか)妊娠6ヶ月。お腹の中に4ヶ月後に生まれてくる廉がいた。ヨメさんは当時も今も同じ。私の行動に対してゴチャゴチャ言ったことがない。

 ヨメさんには、「生まれてくる子どもに、胸をはれる父親でありたい」というようなことを言ったつもりだったが、それは夢の中のことであったかもしれない。
 「多種多様な意見が無視され、みんなが同じことしか言えない世界は恐ろしい」というようなことは言ったような気がする。なにしろ20年も前のことですから・・・。

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8ぴき中6ぴきしか写っていません

 4月に上賀茂東後藤町に引越し、そこで「京都キャロット」開店(現在の通販事務所)。犬1ぴき(エリ)、猫8ひき(キャロちゃん、チョンちゃん、ルビコ、パティコ、チビンタ、ネーモちゃん、コメちゃん、あんも)もいっしょに引越し。

 引越し用のダンボール箱に空気穴だけを開けて、そこにネコちゃんらを詰め込み移動。新しい家に着いたら、中からバリバリ破って出てきたなあ。1つの箱に何びきかずつ入れていたので、パニックにはならなかったようだ。でも、箱の中はムーと暑くなっていた。ああ、なつかし。

 エリちゃんは死に、猫8ぴき中7ひきも死んでしまった。その中で残っているのは、もうすぐ22歳になる黒猫あんもちゃんだけ。
 
 当時ヨメさんのお腹にいた廉は、この8月で20歳。3年後に生まれた真樹も、8月には17歳。
 私は35歳から55歳に。ヨメさんも20代後半から40代後半に。
 この20年間にいろいろありました。
 さて、これから・・・。

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エリちゃん

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2009年02月02日(月)

カントリーロード100kmマラソン [昔話]

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 もう、16年半も前の話です。

 私が100kmを完走したのは一度だけ。
 1992年8月15日に、米子で開催された「第2回カントリーロード100kmマラソン」である。
 前の年8月10日生まれ、1歳になったばかりの廉とヨメさんを連れて、泊まりがけで参加した。

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 このコースは最高だった。スタートして大山の中腹まで上って下りて50km、今度は美保ヶ関の先っちょまで行って帰って50km。

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中間点でひと休み(私36歳、ヨメさん30歳、廉1歳)

 おもしろいけどすごいコースだった。私は、その中でも特に、美保ヶ関に渡るかけ橋が海面からかなり高くて怖かったのを覚えている。

 最後の10kmくらいは足がつり、「ちょっと歩いては立ち止って屈伸」のくりかえしになった。
 主催者さんが、「一応、制限時間は15時間」と言っておられたので、最後はあせった。
 「なんとか、制限時間内にゴールを・・・。」

 真っ暗になったゴールに待っていたのは、かわいいかわいいますみちゃんとれんだった。廉を肩車して、ゴール(トップの写真)。
 14時間49分28秒。
 なんとかギリギリセーフ。
 このときの「パオパオ」は、ちょっとは輝いていたかな。

 後で分かったことだが、主催者さんも走っておられ、私の8分後にゴールされました。
 のんびりしたいい時代でした。

 (この大会は細々とではあるが続いていると聞きましたが、現在どうなっているのでしょう。主催者は松浦晋一さんという方でした。
 この大会で、「24時間リレーマラソン」の荻原敏さんや、岡山の貝畑和子さんと知り合いました。)

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 この翌年から2年連続で「サロマ」に挑戦。2年連続アウト。
 これも、ヨメさんと廉についてきてもらった。2回目は、ヨメさんのお腹の中に真樹が・・・。

 「丹後100km」ができて、第1回から8年連続挑戦。8年連続アウト更新中。
 こちらは、ずっと一人で参加しています。
 やっぱりゴールで待っていてくれる人がおらんと、完走は無理なんかなあ。

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☆「ロード・トゥ・トカシキ」17日目

 今日もスタンダード。
 きくとのスロージョグ2km。14分2秒。
 今日は、きくも真剣に走った。シッコタイムは3回だけ。なれてきたんかな。

 そのあと、3kmペース走。今日は、途中で1回も時計を見なかった。16分38秒。8秒差。ええぞ。順調順調。
 2km+3kmで5km。

 今日、重大な発見をした。
 ぺ−ス走で一番大事なんは、自分の足音やね。足音に違和感を感じる時はダメ。足音のリズムがきれいな時は、だいたい時分の思い通りのタイムで走れている。
 まわりの人に惑わされず、自分の足音に神経を集中すれば、申告タイムレースを制することが可能です。
 これ、どうでしょう。

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2008年06月26日(木)

ぺーちゃん [昔話]

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1977年8月、オーストラリア・バサーストにて

 ぺーちゃん。
 本名、ペマ・まどか・ガザード。
 父・オーストラリア人、母・日本人。
 歳は、31年前、3、4歳。
 生まれて1年ほど、私のふるさと京都市左京区花背別所町に住んでいた。その後、オーストラリア・シドニーの西約200km、バサースト(buthurst)に引越し。

 私が大学4年の夏(1977年)、ガザードさん一家に会うためオセアニア旅行をした。(むこうは真冬) おみやげは、うちの母が炊いた山椒。
 ニュージーランドに一週間、その後オーストラリアに一週間。

 ガザードさん一家は、シドニーのコアラホテルまで迎えにきてくださった。 
 バサーストのおうちは、隣の家まで2km。家から周りを見ても、殺風景な景色が広がっているだけだった。りんごを買いに行ったら、青い青いりんごばっかりでびっくり。(おいしそうには見えなかった。)
 夏は、猛毒の毒ヘビが家の中にも入ってくる。自然保護に力を入れている国なので、たとえ毒ヘビでも殺してはいけないらしい。「でも、こっちも必死やからね。殺したことあるよ。子ども守らんなんから。ないしょやでー。」(ぺーちゃんのお母さんは、京都出身です。)

 いろんなところへ連れて行ってもらったが、最後は「畑でもつくってもらうか。」ということになった。私がいなかで畑仕事をしていたことを、お母さんはよくおぼえておられた。
 「オーストラリアで畑仕事」、これもおもしろいと思ってやってみた。ペーちゃんの子守りも兼ねて。ぺーちゃんは、私が耕している横から話しかけてくれるのはうれしいんやけど、おおかた英語でこっちは「何ゆうてるのか、わかりましぇん。」
 今思たら、長い時間よう退屈もせんと、あんなとこにおったよなあ、ぺーちゃん。

 ペーちゃんと言えば・・・
 ペーちゃんが別所にいたときは、まだ生まれたてで、顔がめっちゃ外人だった。オーストラリアで再会した時、顔見てビックリ! めちゃくちゃかわいい日本人。写真をとって、帰ってからうちの両親に見せたらたまげていた。「これ、ほんまにあの子かー。」
 
 いま、35歳くらい。どこでどうしているのかな。会いたいなあ。インターネットで検索できるかな。(どなたか、検索してください。)

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大きな畑ができました

◎このブログは、6月4日の続きみたいなもんです。

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