2008年05月19日(月)
中学のクラス会 [学校]
昨日の午後、中学時代のクラス会をした。
私が卒業したのは、京都市立花背第一中学校(左京区花背別所町)。残念なことに、昨年3月、60年の歴史の幕を閉じた。
私たち1970年度卒業生は、入学時男10女4の合計14名(このうち女子1名が途中転校し、卒業は13名)。この後、卒業生が2けたになることは一度もなかった。
また、当時、大原百井町から峠を越え約4kmの山道を毎日通う仲間がいた(入学時、男3女1)。
今回、百井町の「とり幸」さんでクラス会をするのも、こういうご縁があるからだ。(「とり幸」さんは、クラスメイト林幸博君のご実家が経営。鶏を育てているのは、幸博君。)
一応今回のクラス会は、言いだしっぺの私と幸博君が幹事になった。
担任だった中古賀先生に、「できるだけたくさん集めます」と約束したので、14人中7人以上を目標にした。
出欠の締め切りは4月末だったが、その時点ではっきりしていたのは幹事2人のほか2名。こら、えらいこっちゃ。先生は、「少なくてもええで、無理すんなよ」と言ってくれてはったけど、ブルガリアから帰ってきてはんのにこれではね。
それから電話しまくり、メールしまくり。それで、ようやっともう4人増えた。合計8人。よかった。目標クリアー。
後は、ドタキャンがありませんように。(それがちょっと心配なんです。)
京都走ろう会の例会が終わったのが、11時前。「ビブレ」の駐車場に車を取りに行く途中、中庭を通ると 「ありゃ、中古賀先生」。静かにすわって本を読んでおられたので、声はかけなかった。11時40分に待ち合わせしていたのだが、早く着きすぎて時間調整してくれてはんにゃ。
急いで帰って着替えて、車のそうじ。またシャワーもあびるヒマないし、汗臭いかも。皆さん、すいません。
ビブレに向かう途中、上賀茂橋の前を通ると、11時45分に待ち合わせの約束をした物部周作君が立っていた。まだ10分以上あんのに、早くから待ってくれてんにゃ。でっかい周作君がチンと待っているくれている姿を見て、何か、ものすごくうれしなってきた。
約束の11時40分ちょうどビブレ前で中古賀先生を乗せ、これまた45分ちょうど上賀茂橋で周作君を乗せ、またまた50分ちょうど御薗橋西で明美ちゃん(旧姓・小西)を乗せた。われながら、すごい。こうゆう計算は、ばっちりです。
忘れ物をしたので二軒茶屋の家により、優子ちゃん(旧姓・物部)が待ってる鞍馬へ。
バス停で待つ優子ちゃんを見つけた明美ちゃん。「いやー、優子ちゃんきれい。」 いやー、そら優子ちゃん喜ぶわ。
百井に着いたのは、予定通り12時半少し前。
直行組の物部和佐男君、林靖弘君、琴美ちゃん(旧姓・藤井)はさきに着いており、「とり幸」前で林幸博君としゃべっていた。
あー、これでドタキャンゼロ。全員時間厳守でそろってくれた。
「酔う前に、みんなで写真撮っときましょ。」
幸博君のおい・宏明君(22歳)に頼んで、パチリ。それが、最初の写真です。
最初に、私から、このクラス会をしようといういきさつの説明。「おととしの秋、幸博君に久しぶりに会って、『学校なくなんねん』と言う話から、『クラス会やりたいなあ』ゆうことになって。中古賀先生、1年に1回日本に帰ってはるし、その時やろかー。会場はここでええ。おれら、言いだしっぺやし幹事やろな。」ということで。
次に、来れなかったメンバーの分かる範囲での近況報告。
一番残念やったのは、由紀子さん(旧姓・物部)。もっと早くから知らせておいたら来てくれていた。次のクラス会には必ず行くと言ってくれたので、次回は由紀ちゃんの都合を最優先。「みんなで食べて」と、名古屋のお菓子を送ってきてくれた。
藤井和幸君のファックスのお便りも披露。自治会役員はたいへんだ。藤井頼定君と電話で話したこと。藤井修平君、藤井富雄君、浅田誠宏君とは連絡が取れなかったことも報告した。
藤井修平君のおい・石井慧君が、北京オリンピック柔道100kg超級の代表に選ばれたことも報告。クラス会会計から残金が出れば、それを渡すことを了承してもらった。
次に、乾杯。
私には、秘策があった。この乾杯の音頭は、幸博君に頼む。しかし、幸博君は緊張しーやから、直前のドサクサに頼む。
「えーと、乾杯の音頭なんですけど、普通年長者にお願いするんですが、先生はゲストやから・・・、幸博君! 4月 生まれやったやんなあ。頼みます、53歳。」
「かなんなあ。そんなん、急にゆうて。」
「ごめんなー、頼むわ。」
「・・・、えー・・・、・・・今日はみんなに会えてよかった。うれしい。かんぱーい。」
こんなええ乾杯の音頭、聞いたことがない。これで、場の空気がますますよくなった。
さて、お料理へと。話題になったのは、てんぷら。「タラの芽のてんぷらやんね」派と「これ、よもぎやで」派に分かれた。
「幸博君、これ、なにー」 「そんなもん、わしゃ知るかい!」 「えー」 (答えは、よもぎ。珍味!)
次に、それぞれの近況報告。
まずは、中古賀先生、68歳。ブルガリアに住みだして早3年。後2年で帰ってくるとかいう話は、不確定に。
みんなに、「先生って、何の(教科)の先生やったっけ?」と突っ込まれていた。
言葉を選び選び話される姿勢は、変わっていない。
(注)まだまだ続きます。赤の他人のクラス会の話なんか、おもしろくないですよね。私は、このブログをクラス会に来れなかった友に向けて書いているつもりです。
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2008年05月13日(火)
地に堕ちた京都市立小学校長 [学校]
◎5月8日京都新聞朝刊第一面に、次のようなスクープ記事が掲載された。京都以外の地域では報道されないと思うので、くわしく紹介したい。
京の校長らミニコミ紙に現金
「嫌なこと書かれたくない」
昇任、転任した京都市立小学校の校長や教頭ら多数が4月、学校紹介などを扱うミニコミ紙を発行する会社「京都報道センター」(上京区)を訪れ、現金を渡していたことが、京都新聞社の調べで分かった。校長らは「嫌なことを書かれたり、言われないための保険」などと証言する。金額は1人1万円が目立ち、ポケットマネーとしている。教職者が特定業者に現金を渡す不自然な行為に、疑問の声が上がりそうだ。
4月1−4日の連日、センターのあるビル内に、校長や教頭、幼稚園長らが次々に入るのを京都新聞社の記者が確認した。
新任の校長を含む46人に直接取材しただけでも、21人が現金を渡したことを認めた。今回は払っていないが、かつて昇任した時に渡した人が3人いた。現金を渡していないと明確に否定したのは4人だけで、18人は「私的なことなので答えたくない」などと回答した。
昇任、転任にかかわらず毎年現金を渡しているケースや、校長が自らの1万円に加え、同行していない教頭分5000円を持参するケースがあった。
現金を渡す理由について「ニュースに学校批判を書かれたくない」「よろしくお願いしますという意味」と語る人がいた。「慣例だから」とする一方、「センターにだけ、お金を包むことはあいさつに訪れた他の団体に説明がつかない。断ち切らないといけない習慣」などと疑問に感じている人が目立った。
京都報道センターは1977年の設立。ニュース(B4判1枚)を毎月2回発行する。京都市の施策や学校の教育目標などを紹介している。市教委や京都府教委、学校の関係者らが購読している。
■ミニコミ紙社長「付き合いの範囲」
京都報道センターの奥野進社長は「この仕事に携わって50年以上たち、知り合いも多い。いろんな人があいさつに来るのは当然。お金は会社として受け取っているが、付き合いの範囲だと考える」と話している。
◎5月8日夕刊に、続報が。
新任校長、ペン受け取る
「現金はお礼」常識かけ離れ
京都市立小学校の校長らがミニコミ紙を発行する「京都報道センター」(上京区)に現金を渡していた問題で、新任校長が同社から昇進祝い名目のペンを受け取っていたことが、京都新聞社の調べで分かった。一部の校長はセンターへ渡した現金について、「ペンのお礼」と弁明するが、業者から物を受け取ることに加え、現金で返礼する行為が社会常識からかけ離れている。
複数の校長の証言を総合すると、大半の校長はセンターからミニコミ紙を購読する程度で、親交が深い訳ではないのに、四月初めにペン二本とケースがセンター名義で校長の自宅に届いた。包装には「御祝」とあった。
新任校長三十二人のうち、半数が祝い品を受け取ったことを認めている。現金を渡したのはお礼だったという校長が二人いたが、「社会通念と異なる」と認識していた。大半の校長が「金一封を渡すのは先輩から受け継がれた慣習で、贈り物と関係ない』と説明している。
ペンの種類は複数ある。センターへ一万円を渡した校長の場合、受け取ったペン二本は計二千百円だった。
ペンを受け取り、現金を渡した校長の一人は「保護者からの歳暮や中元を断っている時代に昇進祝いの品を返さなかったのは児童に説明がつかない』と話した。
センターの奥野進社長は「昇進を祝う意味で、今春は新任校長に贈った。昇進祝いは昔から続けている。校長の来訪はお礼の意味と受け止めている」と話している。
■祝い品問題ない
市教委は「センターとは現在、何の利害関係もなく、校長が祝い品を受け取っても職員の倫理条例には定職しない。お返しは一般儀礼の範囲と考えられる』としている。
■現金返礼あり得ず
暮らしの作法研究家の岩上力さん(61)=宇治市=は「一般論として、利害関係者から筆記具程度の祝い品を受け取ることはあり得るが、礼状を書くのが常識的なお礼。現金での返礼はあり得ず、付き合いのバランスが崩れている。校長の真意がわからない」と話している。
◎5月9日朝刊に、さらに続報が。
市教委指導主事も現金
ミニコミ紙問題 「慣習ない方が…」
京都市立小学校の校長らがミニコミ紙を発行する「京都報道センター」(上京区)に現金を渡していた問題で、市教育委員会の一部の指導主事も同社に現金を持参していたことが、京都新聞社の調べで分かった。現金供与が学校現場だけでなく、市教委事務局に及んだ。
今春の人事異動で指導主事になった1人は4月初旬、センターを訪れて現金を渡した。「あいさつに訪問する際、菓子や果物を持参する延長線の範囲だと考えている」と説明するが、「胸を張って良いこととは言えない。こうした慣習はなくした方がすっきりする」と話した。
別の指導主事は、異動が公表された直後にセンターから「御祝」として文房具が自宅に届いた。「センターに出向いて文房具に見合う程度の額を渡した」と証言する。「贈り物をもらって何も返さないのは礼儀に反する。しかし、現金を渡すことに、きちんとした説明は難しい」と述べた。
■組織ぐるみでない
市教委は「組織ぐるみで現金を渡すような指示は絶対にしていない。学校を指導する立場の指導主事は学校現場以上に倫理観が求められる。一部の指導主事に慣習が抜け切っていないなら、市民に誤解を与えかねず、指導する」としている。
◎京都新聞担当記者、ようやった。よう、ここまで調べ上げた。
常識はずれの行動を続けていても、なんの反省もない校長先生。それを「何の問題もない」と言い張る市教委。我々一般人から見ると、とんでもない世界です。こんな人たちに安心して子どもを任せられますか?
情けないけれど、これが今の京都の校長と市教委の実態です。
自分の頭で、物事のよしあしの判断ができない。どこかからの指令をロボットのように実行するだけ。はっきりしない影の力におびえる。
そう思われても仕方ないでしょう。反論のある校長先生、ぜひコメントをお願いします。(統一見解ではないご自分の言葉で。)
京都新聞の記者さん、中途半端で終わらず、徹底究明を!
数ヶ月前まで、京都教育界のトップ(教育長)であった現京都市長にも、ぜひ取材を。
☆今日5月13日の京都新聞、オピニオン・解説欄に関連性のある記事が出ていた。
「取材ノートから」というコーナーで、社会報道部、松浦吉剛記者(入社8年目の30歳)の取材である。
一連の「京都報道センター」の記事も、この記者が書いたのではないだろうか。
門川京都市長の談話本配布 市民感覚からかい離
社会報道部・松浦吉剛
京都市教委が行った広報活動は、普通の市民感覚からかけ離れ、賛同できない。二月の市長選直前に、立候補を表明していた門川大作市長(前教育長)の談話が多数載った本を買って、無料で配っていたからだ。送付時期や送り先の反応など取材するほど、市販されている本を配る必然性は低いと感じる。
この本は「教育再生への挑戦」(PHP研究所編)。昨年末に出版され、不登校対策など市教委の取り組み全般を取り上げている。一冊千三百六十五円で、市教委は計千四百部を購入。送付先は、PTA連絡協議会など各種団体の代表、市立の学校園などで京都関係が約八割を占めた。市教委は「前教育長を応援する意図はない」と強調した。
書店への発注から振り返ってみる。注文は昨年十月から年末まで十回に及ぶ。前教育長が「立候補に意欲」と報じられて以降の注文が六割を超えた。
2週間前に発送
発送は一月二十一−二十三日で、告示の約二週間前だった。前教育長のあいさつ文が入った「家庭教育新聞」号外を保護者に配ったことが議会で問題視された時期と重なる。この新聞の場合は、立候補が取りざたされたため、前教育長の名前と写真をあえて外していた。
PHP本は、前教育長が確認できる写真が少なくとも三枚あり、談話は実名で三十五ページにわたり掲載している。それなのに、市教委は本に墨を塗ることも、発送を市長選後に遅らせることも考慮しなかった。
受け取った市民に印象を聞いてみた。財団法人幹部は「市教委は新聞の件で反省しながら、裏では相変わらず応援かとあきれた」。教育支援団体の幹部は「知名度を上げようとする必死さを感じた。他候補に追及されないか心配した」とぼやいた。
「誤解される」
市教委の今回の活動は一般的とは言い難い。京都府の山田啓二知事は二〇〇五年、知事選の約三カ月前に本を出版したが、府は購入も配布もしていない。滋賀県は、前知事が知事選前年の〇一年と〇五年に出した。県秘書課は「選挙を控えた時期に配れば、役所ぐるみと誤解される」という。
そもそも書店で販売中の本を送る必要があるのか。市教委は「実物を送れば読まれる可能性が高い」という。しかし、仮に購入するとしても、図書館に置く方が不特定多数の市民が無料で利用でき、広報の目的にかなうはずだ。市財政が逼迫(ひっぱく)する中、購入費用も抑えることができる。
「公選法に触れません」。市教委担当者はこう説明した。しかし、行政の順法は当然で、運動員の言い逃れに聞こえて仕方なかった。門川市長は「市民感覚の市政」を掲げる。市役所がどう変わるのか、じっくり見極めよう。
[京都新聞 2008年5月13日掲載]
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2008年05月09日(金)
ゆきちゃん [学校]
夕方、店に電話があった。ヨメさんが出た。
「同窓会のことで電話させてもらったんですが・・・。」
私が電話を代わると、「由紀子です。」と元気な声。
「えー、ゆきちゃん。よう、かけてきてくれたなあ。ゆきちゃんとは、連絡とれへんかなあと思とったんや。ありがとう。」
私が電話した時出てもらえなかったが、不在着信を見てかけてくれたようだ。
ゆきちゃんは、私のふるさと花背別所で小中いっしょ。その後はよく知らないけれど、結婚して名古屋へ。28歳男、21歳男、19歳女の3人の子。今、スーパーの鮮魚部で、魚のパック詰めの仕事をしているらしい。もう10年になるそうだ。
クラス会は、行くかどうかだいぶ迷ったらしい。スーパーは日曜は休みにくいし、会場も遠いし。
でも、もう少し早くこちらから電話して、プッシュプッシュプッシュしてたら来てくれたかも。惜しいことをした。中学卒業後37年間、まったく会ったことも話したこともない。それで、ちょっと遠慮してしまった。
なーんや、遠慮することなかったんや。あのころのゆきちゃんと、なーんも変わってへん。と言うより、もっと元気かも。
「また2年後くらいにクラス会するし、その時は絶対来てな。今度は、ゆきちゃんの都合を最優先にするし。」 (また、幹事やるどー。)
ゆきちゃんは、ものすごよろこんでた。
会いたいなあ、ゆきちゃん!
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2008年05月07日(水)
辻のかあさん [学校]
今日は、きくちゃんの狂犬病予防注射の日。
きくちゃんのような上等な犬(推定2億円?)は、わざわざ動物病院へ注射を受けに行きます。
西賀茂の「芝動物病院」に着くと、ちょうど受付おねえさんが前の道路におられた。
「いやー、きくちゃん、ひさしぶりやねー。」
すごい。毎日大混雑と言っていいくらい犬猫そのほかが来ているのに、一年に一回この時期しか来ないうちのきくをおぼえてくれてはるなんて。
「顔と名前をおぼえる」 これ客商売の基本中の基本です。
そのおねえさんはもともと感じのいい人ですが、きくの名前をよんでもらえるだけで、またここに来ようと思います。
学校も似ています。
先生がすぐ名前をおぼえて、声をかけてくれる。子どもはそれがどれだけうれしいか、先生方はご存知でしょうか。逆に全然名前をおぼえてもらえなかったり(おぼえる気もない?)、まちがった名前で呼ばれたりした時のがっくりし様。
話は変わり、場所は「コーナン」。
「いやー、先生。お久しぶり。」
「あらら、辻君のおかあさん。」
「先生、ぱっと見て、世話になった人や、声かけなあかんと思って・・・。」
「ありがとうございます。ところで、辻君は、今は?」
「タヒチにいます。」
「えっ?」
「タヒチです。現地の旅行業の会社に就職して・・・。」
「それはすごいですやん。」
「なんかね、あの子が言うには、小さい時から『タヒチ行きたい』てゆってたやろって。私には、そんなこと言ってたかなあってゆう感じなんですけど。」
「おかあさん。今の若い子って、何をやったらいいのかわからへん子が多いのに、そうやって自分のしたいこと見つけて実現したんですからえらいですやん。」
「そうですかー。ただね、まだ結婚してへんのですよ。36にもなってんのに。」
「そんなん、心配せんかってだいじようぶですって。」
「そうですかねえ。」
「ところで、妹さんのほうは?」
「こっちも、まだ結婚せんといますねん。」
「ごいっしょに住んではるんですか。」
「いえ、家は出てるんですけど。」
「えらいですやん。今、いくつになっても親から離れられへん子って多いですよ。そう思たら、家出てるだけでも立派なもんですって。」
「まあー、先生。ちょっとしたとこからじょうずにほめはリますやん。うちの子も大きなったけど、先生も成長しやはった。」
「ほんまですわー。昔は、人のことほめんのんへたやったと思います。今は、すきがあったらほめまっせー。」
新採で大原小学校百井分校に行き、少人数の子の複式を担任した後、今度は上賀茂小学校で5年生43人の担任になった。何の経験もなく、根がいいかげんなので、けっこう問題の多い担任だったかもしれない。
ところが不思議なことに、私がどんなむちゃをしてもどこまでも味方をしてくださったお母さんが何人かおられた。辻君のお母さんも、そのなかの一人である。
辻君には給食を食べささずに帰したこともあった。(話せば長いので、理由はカット。)今なら、大問題です。それでも、辻君のお母さんはわらっておられた。要するに、担任よりお母さんのほうがずっと大物やったゆうことです。今頃でなんですが、未熟だった私をどうか許してください。すみませんでした。辻君、はらへったやろなあ。
あのころ、小学生の友だち同士で母親の話題が出る時、「○○のかあさんは・・・」とよく言っていた。
私も真似て、・・・「辻のかあさん」は、おもしろく、たのもしく、いい人でしたよね。
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2008年05月06日(火)
大学のクラス会 [学校]
5月4日の午後、大学時代の友だちが集まりクラス会をした。
大学を卒業して、ちょうど30年。
私が卒業したのは、立命館大学二部文学部。
私は2回生から3回生に上がる時、地理系から哲学系に移ったため、ほかのメンバーとは2年間いっしょだっただけ。声をかけてもらえるだけでもありがたい。(私に限ると32年ぶりということになる。)
最初のクラスは30人弱だっただろうか。働きながら学ぶコースなので18歳は半分、あとはバラバラで確か10歳上の人もいた。
京都出身は、私を含め5、6人だけ。こちらも北海道から九州までさまざまな所から集まっていた。
声をかけてくれたのは、九州男児・岡部四郎君。(現在、大阪在住)
5月4日にしてくれたのも、私の都合を優先してくれた結果のようだ。
私は、会場さがしを任され、ヨメさんと下見に行った「花かれん」を予約しておいた。
岡部君には参加人数を聞いただけで、誰が来るかはくわしく聞かなかった。でもまあ、「花かれん」さんは創作寿司のお店なので、誰でもだいじょうぶでしょう。
午前中の京都走ろう会例会から帰り、急いで着替え、叡電「精華大前」駅に向かった。10kmを走った後だったのでシャワーくらいはしたかったのだが、時間がなかった。ちょっと汗臭かったかも。すんません。
「出町柳」で京阪に乗り換える時、集合時間の午後1時に、もう7、8分しかなかった。ここで岡部君に電話して、先に入っておいてもらうことにした。電車に乗りなれてへんと、時間の感覚が鈍くてあきません。
10分遅れくらいで「花かれん」に着くと、私以外の5人がチンとすわって待ち構えていた。
岡部君に長谷川君、都志さんの3人はすぐ分かり、あと二人。おーおーおー、飯沼さんに三上さん。これで、男3女3。なんかええやん、ええやん。
「フジイ、走って来たんけ?」
「午前中に10km走ったし。昨日は、フルマラソン走ったし。そやし、こんなに焼けてんねん。」
まずは、乾杯。
「こうゆう時は、場の最年長が音頭とるもんなんやけど」と私が言うと、みんなが三上さんを指さす。
「えっ、三上さんて、そんな上でしたっけ。」
「うん。」(指、4本。4歳も上やったんか。大学時代しゃべったことなかったし知らんかった。)
「92歳の義理のお母さんと住んでんにゃなあ。娘と3人で。」
「えっ、だんなさんは?」・・・(以下、都合により話の内容は省略します。)
岡部君は22歳の息子と20歳の娘、長谷川君は25歳と23歳の息子+孫2人。飯沼さんは26歳と21歳の娘、三上さんは28歳の娘。都志さんはお母さんと二人暮らし。
みなそれぞれいろいろあるけど、今日のこの場に出てこれたということは、それだけで幸せっていうことや。
長谷川君のなんかの話の中で、「ヨメさんに『○○こうてこい』ってゆったりなあ。」
私「えっ、そんなえらそうにゆってんの? 飯沼さんとこのだんなさんもそんなこと言わはる?」
「そんなの、しょっちゅうよ。」
「ふぇー、一生に一回でええしそんなことゆうてみたいなあ。でも、その後どんな目に合わされるか・・・。ヨメさんに食わしてもろとる身は、つらいどー。これな、ネタでゆうとんのとちゃうねん。ほんまのほんま。ここは相手が納得するまできっちり説明せー、ゆわれとんね。」
私の真剣な説明に、一同納得。
三上さんに、4年の空白の後大学に入ろうと思ったわけや、大学時代の思い出を聞いてみた。「何で今頃そんなこと聞くの?」とは言われず、ちゃんと説明してくれた。こちらは大学時代にしゃべったことがなかったので、何もかも新鮮。
まじめな飯沼さんの言葉。
「後40年も生きなくちゃいけないのに、どうするの。奥さんのサポートができるようにならなくっちゃー。」(たぶん、40年は無理でしょう。私の予定では、あと20年。)
うーん、身にしみるアドバイスです。でも、そんな能力が・・・。
とその時、私の携帯にメール着信音が。
「いやま、グッドタイミングやわ。ボクの最後の教え子からメールや。こうゆう子からメールが来るちゅうことは、まあまあええ先生やったちゅうこっちゃ。なっ!」と自慢。
教え子ちいちゃんからのメール「こんにちは。お元気ですか? さわやかなお天気のGWですね。今日は家で修論やら大学院の資料のまとめをしています。
京都キャロットのHPを見つけたら、そこに先生のブログ発見! 楽しく見せてもらいました。」
ありがとうね。よかったら、コメントしてね。
2年前亡くなった、金沢の越野君のことも話題になった。
「秋の定期健診で肺ガンが見つかって、12月に死んでしもたんやで。早すぎるよな。」
越野君と私も、けっこう深いつながりがある。
大学卒業後、金沢の中学に採用された彼の最初の赴任地は、「医王山(いおうぜん)中学校」だった。金沢に遊びに行った時、家に泊めてもらい、翌日山間部にあるその学校にも連れて行ってもらった。その時、越野君は女子ソフトボール部の顧問をしており、私のことを野球経験者として紹介してくれた。
「ちょっとみんなに話したって。」そう頼まれて、部員の前で自分の経験を話した。ちょっとはずかしく、ちょっと誇らしげに。
ええふんいきを持った、友だち思いのええやつやったよな。(歳は、いっこ上やったけど。)
皆さんアルコール系があまり好きではないようで、長谷川君一人が飲んでいた。2時間の予定が、30分オーバー。店の入り口で、全員の写真を撮ってもらった。
店を出て、喫茶店でもということで、三条通りをぶーらぶら。しかし、どこも混みごみ。
「イノダコーヒー本店」が比較的ましだったので、待つことにした。
4人が店の中で待ち、私と飯沼さんの二人が店の外に。チャンス! 30年前なら、きっとそう思ったでしょうね。
「大学の時、しゃべったことなかったね。」と彼女。
「そうやね。ボク、一匹狼やったから。いやいやまちがい。一匹猿やったから。」
「えー」(大うけ。私はけっこう、これで満足。)
飯沼さんにも、どうして立命に入学したのか、どうして千葉に帰ったのか、どうして京都に戻って来たのかなどくわしく聞いた。ほんとに初めてしゃべりましたね。
店に入ると、4人はもうすわっていた。
私「今な、白馬にでっかいスイカ持っていった話で盛り上がっとったんや。」
「ああ、みよちゃんの。でも、フジイ、白馬来てたっけ。」
行ってません。行ってなくても、何ぼでも話合わせまっせ。
みんなそれなりに、大学生活を楽しんでたんや。私以外の5人は、4年間もいっしょやったんやもんね。私は、4年間もがいていました。
「フジイ君て、こんなによくしゃべる人やったっけ。」
「うーん、それはな、ニュージーランド旅行に行ってからようしゃべるようになってん。」と都志さん。
この、何でも知ってるよという堂々とした態度は・・・。 無理もない。何をかくそう、私は一時期、都志さんのことを親兄弟より頼りにしていた。
卒業後、何回も電話で身の上相談にのってもらった。
一回だけ、田辺の実家にもおじゃました。四国で自転車の160kmレースに出、徳島から和歌山にフェリーで渡り、そこから田辺まで自転車で行った。自転車で京都まで帰る元気がなくなり、帰りの電車賃貸してもろた。ほんま、お世話になりました。絶対、頭上がりません。
都志さんは、大学時代はふっくらほっぺが印象的だった。ところが、今はしぼんでしまった。体重は40kgしかないそうだ。
「どしたん?」と聞くと、
「皮膚ガンの治療でなあ。」と言って、前髪を上げておでこを見せてくれた。治ったって言ってたけど、だいじょうぶ? 絶対、死んだらあかんで。
2人のおっさんはおいといて、3人の女性に会い感じたこと。
それは、三人三様の個性が変わりなく輝いているということだ。安心した。うれしかった。これは、作家の文体に似ている。
都志さんの次々発射する大阪弁は、田辺聖子風?。三上さんのゆったりした話し方は、川端康成?。飯沼さんのしゃきしゃき関東弁は、曽野綾子?。
そう思うと、私には確固たる文体がないなあ。(目標はカフカなんやけど、原文読んだわけじゃなし。翻訳文体真似してもなあ・・・。でも、じれったさは似てるどー。)
またの再会を誓い、おひらき。
私は京阪電車、ほかの5人は地下鉄だったので四条通りでお別れした。
最後の最後に「両手に花」の写真を撮ってもらった。でも、この花って何の花?
◎あえて写真の説明をしませんでしたが、誰が誰か分かったでしょうか。
また、このブログを見た同級生がいたら、ぜひコメントをお願いします。
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2008年04月12日(土)
ブルガリアへの国際電話 [学校]
今日、二回、ブルガリアに電話した。中学時代の担任、中古賀先生に。
はじめは、昼の2時半(現地時間朝の8時半)。
「先生。やっとクラス会の案内状できました。これからぼちぼち動き出しますし。先生は、前言ってた5月18日だいじょうぶですよね。」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
「先生に送りたいもんいっぱいあったんですけど、今から送ったら入れ違いになりますかね。」
「そやなあ。帰るのが4月26日やから、日本に帰ってからもらうわ。」
「わかりました。楽しみにしててください。」
その後、百井と別所へ。
百井の林幸博君に、案内状4人分(百井分)を託す。
幸博君はすでに百井組3人に声をかけてくれていて、内2人はいい感触だったとのこと。さすが、言いだしっぺ。ちゃんと責任感持って動いてくれている。
うれしい。たのんまっせ、4人とも来てくれよー。
別所では、まず「小谷屋」さんへ。私のいなか花背別所町唯一の料理旅館だったのに、今は見る影もない。
しかし、同級生のよりちゃんの携帯番号はわかった。
小谷屋のおばさん、家に行ったら、ものすご喜んでくれはった。
「今年はえらい雪でなあ。だれも雪かきしてくれへんさかい、うらのガラス戸、全部割れてしもたわ。しょうがないし、私一回やってみたんやけど、すべって腰打ってしもてなあ。
こうちゃん、よう来てくれたなあ。頼定にも声かけたって。そら、喜ぶわ。」
小谷屋のおばさんとのやりとりで、おかしかったこと。
「あんたとこはええわなあ。みな、しっかりしてはっさかい。うちはあかんわ。頼定はふらふらしとるし、○○のとこもようヨメさんがしんぼうしとるわ。」
「そんなことないですって。外から見るのと中味は大ちがい。うちかて、いつヨメさんに逃げられるか、いつボクが追い出されるか、毎日ビクビクしながら生きてますねん。」
「そんなこんないやろな。」と言いながら、さっきまで暗かったおばさんの顔が、ぱっと明るくなっていた。
次は富雄君の親戚、高則さんとこへ。
「富雄君の連絡先わかったら、教えてほしいんですけど・・・。」
「わしゃ、知らん。家も売ってしもたらしいし、どこにおんにゃろなー。」
こら、しゃーない。何かほかの手を打たねば。
父に会い、由紀ちゃんの連絡先をさがす方法を聞いてみる。「別所には、親戚らしい親戚はおらん。」これも、しゃーないな。別ルートを探ろう。
家に戻り、もう一度ブルガリアへ国際電話。こっちの夜9時半(現地時間昼3時半)。
「先生、よりちゃんの連絡先わかりました。ボクはちょっと暗いイメージを持ってたんですけど、今日の声は明るかったですよ。この後すぐ電話したげてください。
ほか、百井組は・・・、富雄ちゃんは・・・、由紀ちゃんは・・・」
「いろいろとご苦労さんやなあ。」
「そんなん、全然。けっこう楽しんでやってます。」
「また、おくさんにおこられてんのんちゃうか。」
「えーとこ、つきますね。そのとおーり。 小谷屋のおばさんに、ボクもいつ追い出されるかビクビクしてますねんってゆうたら、大うけでしたわ。」
「そうかー。ははははは。(ブルガリアからも、高笑い)
バラのハンドクリームぎょうさん持って帰るし、それでかんにんしてもらい。」
「はい。よろしゅうお願いします。」
よっしゃー、これでなんとかクラス会の形が見えてきた。手動カメラでピントを合わせていく感覚。これ、好きなんや。
先生も楽しみにしてくれてはるれど、ボクはもっともっと楽しみです。さあー、14人中何人来るか。
これから先も、あらゆる手を打ちまっせー。
◎できあがった案内状は、以下の通り。
2008年4月吉日
花背第一中学校・1970年度卒業生の皆様へ
中古賀クラス会のお知らせ
花の色が美しい季節になりました。皆様いかがおすごしでしょうか。
すでにご承知かと思いますが、私たちの母校、花背第一中学校・別所小学校は昨年3月閉校となり、統合して花背小中一貫校となりました。現在暫定的に別所の校舎を使用していますが、来年春より花背第二中学校跡地に完成する新校舎に移転します。(別所から学校がなくなります。)
中学校卒業後37年がたち、私たちも50歳を越えました。
一昨年、PTAだよりの原稿の件で百井の林幸博君に会い、その時、中古賀先生とクラス会がしたいなあという話になりました。昨年3月、ブルガリアから一時帰国されていた中古賀先生に相談すると、たいそう喜ばれ、翌年5月にまた帰国するので頼みますとのことでした。(2月末、国際電話で先生の出席は確約していただきました。)
会場は、林幸博君ご一家が経営されている百井の地鶏料理店「とり幸」さんです。
交通の便が良くないところですが、百井のきれいな空気を思いっきり吸いに来てください。 当日、私(こうじ)はハンドルキーパーに徹するつもりですので、送迎は遠慮せずに申し付けてください。
記
日時 2008年5月18日 (日) 12時30分〜
場所 「とり幸」 (大原百井町、百井分校お向かい)
TEL 075-744-2252
会費 6000円 (当日、受付にて申し受けます)
幹事 藤井廣司 TEL 090-6989-2171
e-mail kikukouji@docomo.ne.jp
林 幸博 TEL 075-744-3044 (養鶏場)
075-744-2252 (とり幸)
※ 恐れ入りますが、4月30日までに電話(またはメール)にて幹事まで出欠をお知らせください。
(欠席の時は、中古賀先生へのメッセージを送ってください。責任を持ってお伝えします。)
Posted by パオパオ パーマリンク トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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