2008年01月22日(火)
高間悦子さん [沖縄]
滋賀・沖縄県人会事務局の高間悦子さんに、初めてお会いしたのは、2006年5月のことである。
娘の真樹が、「沖縄、行ってみたいなあ。」と言い出し、それなら沖縄の人に直接話を聞いてみてからと思っていた。 ちょうどその時、京都新聞に、沖縄返還34周年の記事が出ていた。
「本土の人は、自分の見たいものしか見ないのか。」
これが、その記事に寄せられた高間さんのコメントである。
高間さんは、湖南市(旧甲西町)で、「沖縄館」を経営しておられた。そこには、沖縄の情報を求めてたくさんの人が訪れる。しかし、そのほとんどが遊びの情報を求め、米軍基地や沖縄戦の話には目もくれない。それに対して発せられたのが、先の言葉である。
この言葉には、衝撃を受けた。
とりあえず、「沖縄館」に電話してみた。
「小6の娘と沖縄旅行に行こうと思ってるんですが、(新聞記事を見て)、見たいものしか見ない人間にならんように、高間さんとお話したいんですが・・・。」
「お店の仕事で中断するかもしれないけど、それでよかったら、どうぞ来てください。」とのお返事。
日曜参観の代休を利用し、京都の山奥から滋賀の湖南市まで出かけて行った。
高間さんは、初めてお会いした人なのに、なにか懐かしいような、ふんわりとしたふんいきを持った人だった。(私の二番目の姉と同世代。)
無知な私のへんな質問にもあきれず、ていねいにわかりやすく答えてくださった。横にいた娘も、すべてしっかり聞いていた。
その話の中で、私が一番印象に残っているのは、今学校で行われている平和教育への失望である。
招かれて学校でお話をする機会がたくさんあったそうだが、先生方が沖縄について下調べをされてる節はほとんど感じられなかった。ただ、名ばかりの「平和教育」をこなしているという感じすらした、というようなことをおっしゃっていた。(今や、先生までもが見たいものしか見ない人間なのか。)
この指摘は、きつかった。
私も、若き日の一時期、小学校教師をしていた。戦争や沖縄のことをほとんど勉強せずに、子どもらにいいかげんなことを言っていたように思う。
まず、沖縄のことを少しでも知ろう。そして、もうこれ以上沖縄の人をだましたり、裏切ったりするのをやめよう。
本気で、そう思いました。
この日から、私の座右の銘は、「見たいものしか見ない人間は、ダメ! 」
その高間さんから、お手紙をいただいた。うれしいお知らせだった。
体調をくずされ一時閉館となっていた「沖縄館」が、別の場所で復活。
2月3日には、「沖縄民俗芸能鑑賞会」を開催。
お電話させてもらった時、聞こえてきた声はすごく元気そうだった。「鑑賞会」の会場が草津と近かったので、行かせてもらうことにした。
「私も、舞踊とさんしんの両方に出ますので・・・。」
しっかり見させてもらいます。
また、楽しみがひとつふえた。
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2008年01月21日(月)
ブルガリアへの手紙 [学校]
私が中学生の時、3年間担任をしていただいた中古賀公隆先生が、現在ブルガリアに住んでおられる。
去年3月、向日市のご自宅で、一時帰国されていた先生と、約30年ぶりの再会をはたした。30年の間にいろんな事があったはずなのに、二人ともそれほど変わっておらず、ごく普通に話ができたのがうれしかつた。
その時18歳だったミケねこのちびちゃんが、去年10月4日に死んでしまった(19歳)。 10月中旬、先生からの国際電話でそのことを知った。ちびちゃんは、先生の娘さん(ご結婚され、現在名古屋在住)がひろってきて、その後、先生の息子さんご一家が世話をされていた。
3月におじゃました時、ネコ好きな私は、ちびちゃんの写真をとらせてもらっていた。その写真がほしいと言われたので、年賀状といっしょに送ることにした。
それだけではちょっとさびしいので、石垣市のわんわんクラブのカレンダーと、私が去年読んだ本の中で一番印象に残っている「あなたは戦争で死ねますか」も入れておいた。
郵便局で、中身の内容とおよその価格を書かされた。「英語で書いてください。」と言われ、困った。bookとphotoは思い出したが、カレンダーってどうやったっけ。(すんません、中古賀先生。・・・先生に教えていただいた英語は、全然身についていません。)
中身の合計は、2000円くらいの値打ち。送料は、2085円。送料の方が高かった。
今年5月予定の中古賀先生クラス会(1970年度卒業)、実現に向けて努力します、という手紙をそえて発送した。 ( 先生は、ビザ更新の関係で、一年に一回帰国されています。)
ちゃんと届いてくれたらいいんやけど・・・。(届かないことも、けっこうあるそうです。)
ーーブルガリアへの手紙ーー
中古賀先生
おかわりありませんか。
今年のブルガリアの冬は、どうですか。
こちらもやっと冬らしくなり、おととい(1/17)は一日中雪がチラホラしていました。北の山はまっ白で、きっと別所はたくさんつもっていると思います。
住所がわかっている同級生に、年賀状を出しました。
その中に、「5月に中古賀先生のクラス会をします。ぜひ、参加してください。」と書いておきました。
(中略)
クラス会は、5月18日、場所は「とり幸」さんの線で話をすすめます。
年賀状が出せてない人数も多いのですが、何らかの手がかりをさぐり、連絡をとっていこうと思っています。
さきおととい(1/16)、ヨメさんとふたりでドキュメンタリー映画「ひめゆり」を見てきました。
ひめゆり学徒隊の生存者22人の証言を、ナレーションや音楽をいれずつなぎ合わせた映画でした。
100時間以上の証言を2時間10分にまとめたものでしたが、全然長く感じませんでした。自分自身がもともと年配の方の話を聞くのが好きなのと、17年前に亡くなった私の母とひめゆり学徒隊の方たちの境遇が似ていたことが、集中して見ることができた理由かもしれません。
(中略)
戦争を体験した人たちが、次々と亡くなられていきます。直接お話を聞く機会がどんどん少なくなっていきます。
私も含め、戦争体験者を親にもつ世代には、何ができるのだろう。最低限、自分が親から教えてもらったことを、また自分の子に伝えなければ。
でも、どういうふうに?
「ひめゆり」は、私にとっては、もっともっと見たい映画でした。100時間以上の証言も全部見せてほしいです。
一昨年5月に、滋賀の「沖縄館」で高間悦子さんからいろいろな話を聞いてから、「もうこれ以上、沖縄の人たちをだましたり裏切ったりしたらあかんで」という思いがずっと続いています。
うちの子にも見てもらいたい映画やけど、予備知識なしに見ても、「かわいそうやったなあ」で終わってしまうかも・・・。
映画を見に行ったら必ず、「何の映画見たん?」と聞いてくれるので、せめてその時、自分が感じたことを話しています。
いつの日か、「そういや、沖縄戦とかひめゆりとかにこだわってたなあ」と思い出してくれたらいいんやけど・・・。
つなぐことのむずかしさを痛感します。自分がよかれと思っても、決して強制にならないように。
最近気づいたのですが、自分のやることの遅さ。
これは、わざとですね。自分のやりたいことをすぐにやってしまうともったいない。ゆっくりゆっくり楽しんでやっている。
今回のクラス会の件も、一昨年10月、林幸博君に会った時に、「やろか」と言ったのが始まりです。
あれから、もう1年3か月。それでも、5月まで、まだ4か月もある。
ほんまに長いこと楽しませてくれよんなあ。
お気楽に、こんなことをやってられるのも、全部養ってくれているヨメさんのおかげです。感謝、感謝。
先生も、ブルガリアまでついて来てくれはった奥さんに、感謝、感謝ですね。
それでは、またお手紙か電話入れます。
5月まで、体調管理をよろしく。
'08.1.19
藤井廣司
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2008年01月20日(日)
京都走ろう会例会(1月第3日曜)+新年会 [ランニング]
例会で、10kmを走った。
出雲路橋南側は、小学生の長距離走記録会で、いつものコースがふさがっていた。
「ぶつかったらあかんしー」ということで、出雲路橋の北側だけを使うことになった。
こんなふうに小学生に気を使って、おっちゃんらおばちゃんらがコースを変更していることを、主催者さんはわかっておられるかな。
日曜のこの時間帯には、必ず視覚障害のランナーが練習されている。(たぶん、この時しか伴走者の方の都合がつかないのだと思う。) 私たちランナー仲間はそのことをよく知っているが、河川敷いっぱいにひろがつた小学生を見ていると・・・、あの子らも先生方もどこを見ているのか、 (なんのために走っているの?)と言いたくなってしまう。 (ちょっと小言が過ぎますか?)
そのころ、走ろう会のほうでは、コース変更後の距離が正確かどうか議論になっていた。
河川敷にある距離表示板では、出雲路橋・御薗橋間が2550mとあった。これを往復すると、5.1kmといつもより100m長くなってしまう。そこで、急きょ折り返しを少し手前にすることになった。
その結果、ゴールするランナーは好記録が続出。私も、42分41秒だつた。(調子はよかったけど、ここまでは・・・。)
ケンケンガクガクの議論があったが、みなさんの意見をまとめると、10kmで300mほど短かったのではということに。私のタイムに当てはめると、44分ちょうどくらいかな。(あちこちで、「サービス、サービス」の声。)
午後から、西院の「おふくろ」で新年会。私は初めての参加である。
京都走ろう会の例会に来だしたのは、20代。そのころは、会の主力が40代の方々だったので、この差は大きかった。
ところが、自分が 50代になると、その差があまり気にならない。もうそろそろ、新年会に行かせてもらっても違和感はないかなと思えてきた。
会長さんが女性であること、参加予定表に私と歳の近い松山健治さんの名前を見つけたことも、参加してみようと思った大きな理由である。(松山さんは、その昔、ご夫婦ともかっこよく走っておられた、私のあこがれのランナーでした。奥さんは、モデルみたいな人でした。)
いったん家に帰り、着替えてバスに。地下鉄・国際会館駅から四条、阪急に乗りかえ西院に。
店ののれんをくぐると、河田さんご夫妻がにこやかに迎えてくださった。
2階に上がると、20人ほどの会員さんがすわっておられ、もう入り口付近しか場所が空いていなかった。ところが、その空いていた場所が松山さんのとなり。ラッキー! 遅れてきたのに、いいポジション、ゲット!
そしたら、そのすぐ後、平田邦子さんが到着。
平田さんは、私が京都走ろう会の中で一番好きなランナーです。(私は、勝手に、平田さんのことを「走ろう会の鬼束ちひろ」とよんでいます。)私よりちょっとだけ年上ですが、とにかく元気。ダイナミックなランニングフォームが、めちゃくちやかっこいい。
平田さんは、空いていた私のとなりの席に。なんかしらんいいことずくめで得した気分。
最初に幹事さん(塚本政琉さん)のあいさつ。
(塚本さん、確か京都ランナーズの新年会の幹事もしてはったなあ。頭が下がります。)
次に、津田会長さんのあいさつ。その後は、まったく自由。
しばらくすると、会長さんがお酒をつぎに来られた。
「わたしね、今までいくら飲んでも酔いつぶれたことないの。お父さんもおじいさんもすごい大酒飲みでね、二人とも医者やったんやけど、お父さんは戦時中、消毒用のアルコールまで飲んでたらしいわ。
私も若い時からすごくお酒を飲んだんだけど、その後も子どもらをちゃんとおふろに入れて寝かせてたんで、みんなびっくりしてたみたい。」
とか言いながら、会長さんと松山さんの二人で、冷酒一本あけてしまった。おそるべし!
お酒の席でよく出る話題、「えと」。
松山さん 「私、トラ年ですねん。」
津田会長 「いやあー、私もトラ年。」
私 「うちのヨメさんも、トラ年ですわ。三人合わせて、トラ、トラ、トラですね。」
松山さん 「ところで、藤井さんは?」
私 「ボクは、ヒツジです。」
松山さん 「こらまた、うまいことなってますねえ。ボク、トラのえさでーす、ゆうて手上げとかなしゃーないね。」
三人で、大笑い。
平田さんは、今、障害のある子どもたちのためのボランティア活動をされてるらしい。前に、「先生、先生」ゆわれてはずかしい、とうれしそうにおっしゃていた。
また、「うちは息子と別居してるんやけど、お嫁さんがお産の時、わざわざうち来て産んでくれはってん。実家も近いのに、うちに来てくれはったん。」とのこと。
ランナーの姑さんとお嫁さんがうまくいっている話は、よく聞きます。いいことですよね。
新年会が終わって下に降りる時、なつかしの長谷川さん(牛乳店のご主人)に会った。何年ぶりかしらん。(もう、80歳近いはず。) かっこいいヒゲをはやしておられ、初めは誰かわからなかった。お顔はすごく血色よく、お元気そうで、お会いできてうれしかった。廉や真樹のことも、聞いてくれはった。
こうゆう場に来たら、なつかしい人にも会えるんや。
お酒はちょっとにがてやけど、また来年も行かにゃー。
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2008年01月18日(金)
三女性からの手紙 [学校]
仕事から帰ると、家に3通の手紙が来ていた。
?岩井千尋さん(20代)
私が小学校教師をしていた時の、最後の教え子の一人。(17年も前の事です。)
もうすぐ、大学院を卒業とのこと。福祉の仕事をしながら、勉強していたらしい。
去年、「宇治川マラソン」会場で16年ぶりに会ったけど、あまり変わっていなくてホッとした。
去年は5kmに出ていたが、「あの坂は、もういいです。」と書いてあった。(確かに・・・)
人生の坂はいっぱいあるから、今度はそっちをがんばって。これから、どう展開していくのか楽しみ。応援してるよ。
?福本先生(たぶん30代)
去年、当時小6の娘が、鴨川で大文字駅伝の練習をしていた時、少しお話をさせてもらった他校の先生。初対面だったが、あたたかくはげましていただいた。
お礼のつもりで年賀状を出したら、とてもかわいいお返事を送ってこられた。
こんな先生が、当時、娘の学校にもおられたら・・・。(それは、言っちゃなんねえー・・・。)
?中山みよ子先生(60代)
私の小学校時代のあこがれの先生。
美人で、元気で、かっこいい先生だった。
去年、私の母校の閉校を機に、40年ぶりに連絡を取った。その時もていねいなお手紙をいただき、それ以来おつきあいが続いている。
現在、教職は退かれ、長崎で坊守さん(お寺のご住職の奥様のお仕事)をされている。そして、定期的に出しておられる「お寺だより」を、いつも送ってくださっている。
私がブログを作ろうと思ったのは、この先生の影響も大きい。・・・よきライバル!
(私のブログは、「お寺だより」のように役に立ちませんが・・・。)
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2008年01月14日(月)
アッシー君 [家族]
昔、車で送り迎えをしてくれる便利な男友達のことを、「アッシー」君と呼んでいた時代があった。
「足」からきた言葉らしいが、今や死語。
中1の娘・真樹が遊びに行きたいので、友達二人といっしょに送ってほしいとのこと。ダイヤモンドシティ・ハナ(五条のジャスコ)に行きたいらしい。
待ってました!
こんなこともあろうかと、たくさんの人が乗れる車を持ってます。
友達は、MIUちゃんとKAOちゃん。
3人で、いっぱいプリクラをとってきたとのこと。(真樹も含めて)3人とも、かわゆーい。・・・のですが、残念ながら、お見せすることはできません。
「なんか、パソコンは、写真をぼかす機能もあるんやって。そやし、3人の写真貸してくれへん?」
「そんなこと、できるわけないやろ。友達に迷惑かかるし。」 (親よりしっかりしとるやん。)
その代わり、3人の話を行き返りたっぷり聞かせてもらいました。
一番多かった話題は、やっぱり、3人が所属しているバスケ部の人間関係に関することでした。たいへんやねー、ぎょうさんおるから。(中1女子は、20人。)
その次は、先生? 男子? 勉強? 当たり前かもしれないけれど、学校に関することが多かったです。
後は、テレビ番組や好きな歌、家のこともちょっとだけ出てきました。
それぞれの家でいろいろな決まり事があるらしく、それにくらべたら、うちは放し飼いやなあ。
そうそう、そう言えば、「勉強しーすぎたら、あほになんでー。やめとき、やめとき。」といつも言っている私の言葉を友達に言ったら、「真樹、いいなー。いいなー。」って、うらやましがられたそうな。(こんな親がいたら、先生は困る。)
これからも、ゆってくれたらなんぼでも「アッシー君」したるけど、こんなヒマなお父さんて、あやしまれへんかな。ちょっと、心配。
この際、ついでに言っときますと・・・
去年の4月、車を買い替える時、決め手になったのは、「トヨタ・シエンタ」のフロントマスク。うちの「きくちゃん」がおこってくちびるめくれてる時と、そっくりなんです。
( これは、マニアしかわからない。)
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2008年01月13日(日)
第34回武庫川新春ロードレース [ランニング・出張販売]
去年の4月から、二人の子を家に置いて夫婦だけで出張販売に来ている。もう慣れているはずやのに、何かモタモタモタモタ。
全部きちんと出せていない状態で、5kmヨメさんのスタート時刻に。
「トイレも行くヒマなかったのにー。」と、プリプリしながらスタート。
そのわりに早く戻ってきた気がしたので、「早かったやん、どれくらい?」と聞くと、「32分ちょっとちゃうかなあ。」
「えー、そんなかかったん。遅なるいっぽうやなあ。」
「店もちゃんとできてへんし、トイレも行けへんかったし、ウォーミングアップもなしで走ってるのに、なんやーその言い方はー・・・。」
大荒れ。32分23秒、出場15人中13位。
私のほうは、10kmに。
普通にスタートし、気持ちよく普通にゴール・・・したつもりが、45分13秒。
いつも同じレースで私の後にゴールしていた二人に声をかけられた。
一(はじめ)さん。「どうしやはったん?いつ抜かれるか抜かれるかと思てたのに。調子悪かったんですか。藤井さんに初めて勝たしてもろた。」(ニコニコ)
太田さん。「最後抜いた時、また抜き返してくれるかと思ってたのにね、どしたん? 藤井さんが前に見えて、ええ目標になったわ。おかげで60代6位入賞やて。藤井さんのおかげやー。」(ニコニコ)
こんなに人様に喜んでもらえたのは、ひさしぶり???
(ちなみに、07年は42分11秒・12位、06年は42分36秒・8位でした。・・・3分も遅なってるやん。知らなんだー。)
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