パオパオだより

2017年06月15日(木)

いくぜ三線教室 [沖縄]

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 今日は午後に三線教室一日体験。
 JEUGIAカルチャーセンター・イオンモール京都五条へ。

 二回目の手術で声がほとんど出なくなり、今出せる音階としてはドレミファまでが精一杯(ソから上は出ない)。もう歌を歌うのは無理。今まで楽器を触ったこともなかったが、今からでもなんかでけんもんかと思った。
 そんな時にひらめいたのが三線。指先は不器用だが、線が三本しかないんやったら何とかなるかーと思えてきた。

 ちょっと遠いけど西大路五条。でも、西京極のグランドには何回も行っているのでなじみのある場所。これから正式に入会すれば、三線の練習のあとサブトラックをぶっ飛ばすとかもできる。文武両道?

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 自宅から12kmほど、車で35分。
 本当は13時30分からだが、一日体験希望者は13時から。私のほかに中年女性がお二人来ておられた。

 先生は40歳前後に見える男性。沖縄県人ぽく見えたが、京都の人らしい。
 先生からいきなり三線を渡され、「きらきら星」の練習。
 楽譜の代わりに「四四工工五五工○尺尺中中上上四○・・・」(○は休み)
 こらおもろい。

 ゆっくりなら何とかできる。
 繰り返し繰り返し練習しているうちに、「きらきら星」が最後まで弾けるようになった。

 13時30分から正会員さんがお二人来られた。こちらも女性。もう1年以上前から来られているらしく、あの「島々静しゃ」などを歌いながら弾いておられた。

 「きらきら星」の次は「ちょうちょう」。そしてそのあとに「なだそうそう」の初めの部分。
 私は一日体験3名の中では一番ましで、他の方が追い付いてこられるまで待つ余裕があった。お二人の女性は半分パニック状態になっておられるようで、何もできずに茫然とされている時間がけっこうあった。

 でも先生はえらい。
 「最初からすぐに弾けるようになる人もおられるし、あとからどんどん弾けるようになって前の人を追い抜く方もありますし」と励ましておられた。

 一日体験は1時間くらいのものかと思っていたら、なんと3時間。正会員さんが15時30分に帰られたあとも居残りで16時まで。値打ちありました。

 練習用に、今日使わせてもらった三線を家に持って帰ってもいいとのこと(レンタル代、月2000円)。今日来た3人とも、7月から正会員になる申し込みをし、三線持ち帰り。
 三線のセットも安くあっせんしてくださるようで、これから続けていくのなら買ったほうが良い(人工皮23000円、本皮30000円くらい)。お一人はもう注文されていた。

 月2回(第1・3木曜)で受講料5400円。
 行くぜ三線教室。
 集中力欠如の私には、それを高めるいい機会です。

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 入会手続きをしているとき、後ろを先生が通られた。
 受付の方が、「今から着替えて、合気道教室に行かれるんです。」
 「えっ? 三線と合気道?」

 先生いったい何者。
 人としてもおもしろそう。
 今度いっぱいしゃべらせてもらおう。
 いろいろと楽しみ!

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【今日のきく】

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 高山牧場の娘さんが私のブログを見てくださっている。 
 それはたぶん、この「今日のきく」コーナーでしょう。
 きくは生まれてから40日ほど高山牧場にいた。あの時、あの娘さんは何歳だったのだろう。ちっちゃちっちゃかったきくのことを、ずっと覚えてくれていたのだろうか。

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 ワンパターンじゃなく、いい写真を載せなくてはね。

 今日はロープ2本つなぎ。
 きくはちょっととまどっていたけど、まあまあ喜んでいた。

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 夜のバス停お迎えも、2本つなぎロープで。
 ぎょうさん動けてええなあ。

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2017年06月09日(金)

米軍基地押しつけの加害者と意識して走る [沖縄]

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 今日は寮2(出町)24時間。

 私の頭痛はパソコンの見過ぎとヨメさんに言われたので、今日はだいぶ控えた。その分、いつもの朝日・日経のチェックは入念に。ところが今度は新聞の読みすぎか、治まりかけていた頭痛がぶり返してきた。
 なーんか体調がスキッとせん!

 でもそんなことも言ってられない。
 6月3日の朝日新聞のど真ん中に、「沖縄は屈しない」の広告。
 米軍基地押しつけの加害者は、沖縄以外の都道府県に住む私たち。私もその加害者の一人だ。そのことを肝に銘じて、6月23日「沖縄慰霊の日」に「平和・憲法九条」ののぼりを背負って60kmを走る。

 今までの4回に比べ、大手術を2回経ての体なので不安だらけ。それでも、沖縄の人たちの「屈しない」精神を見習ってがんばろうと思う。
 「走る」と思うから後半にガタガタとなってしまうんですね。今年は「60kmを12時間で歩き通せたらいいや」という気持ちで行きたい。そうゆうふうに思えばなんとか行けそうな・・・、甘いですかね。

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 朝5時すぎに起き、名護市役所6時のやんばる急行バスに乗る。
 6時44分、池武当で降車。7時、「一人沖縄平和ラン」スタート。
 国道330号から329号へ。

 石川警察署10.1km、8時40分〜9時。(キロ10分から12分)
 金武町役場21.6km、10時40分〜11時20分。
 宜野座球場28.0km、11時50分〜12時40分。
 キャンプシュワブ38.0km、13時30分〜14時40分。
 世冨慶47.0km、15時10分〜16時40分。
 呉我54.5km、16時30分〜18時00分。
 湧川59.0km、17時20分〜18時50分。

 これで、明るいうちに「あいあいファーム」にゴール。
 こう書いていると、楽々行けそうな気がするんですけどねえ・・・。

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【今日のきく】

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 朝6時すぎのきく。
 「きくちゃん」と呼んだら、薄目を開けて「いってらっしゃい」。
 まあそれで十分や。

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2017年05月30日(火)

ラコタ族7つの価値観 [沖縄]

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ラコタ族の価値観が書かれた横断幕と設置した小橋川共行さん=20日、名護市の米軍キャンプ・シュワブゲート前

◎琉球新報5月28日

   非暴力で抗議の意思 辺野古ゲート前 米先住民の教え掲示

 【名護】名護市在住の小橋川共行さんとラッパーの大袈裟太郎さん(34)は20日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前に非暴力による抗議活動を行う際の心得を記した「ラコタ族七つの価値観より」と書かれた横断幕を設置した。小橋川さんは「ゲート前でさらなる非暴力の抗議活動を目指す一つのきっかけにしたい」と話した。

 米先住民のラコタ族は米中西部ノースダコタ州などで民間企業が進めるパイプライン建設に反対し、抗議活動をしている。

 ラコタ族は「七つの価値観」を共有して、非暴力で建設反対を訴えている。七つには祈り、尊重、思いやり、謙虚、寛容、正直、英知がある。小橋川さんは「『思いやり』は相手の苦しみや立場を考えることの大切さをうたっている」と話す。

 ゲート前で機動隊が市民らを排除する際、市民らから機動隊に対して心ない言葉が発せられる時もある。小橋川さんは「市民の多くは非暴力で戦っている。もっと徹底した非暴力にするため、横断幕にラコタ族の価値観を記した」と理由を説明した。

 横断幕の制作に関わった大袈裟さんは「緊張感がある抗議活動の現場で、熱くなる気持ちは分かるが、機動隊や海保、警備の人にもそれぞれの立場がある」と話す。「若い世代が座り込みに参加しやすいように、ラコタ族のような非暴力にすることが必要だと感じた」と強調した。
     ◇     ◇     ◇

   ラコタ族7つの価値観

1.祈り 祈りとは感謝と懺悔である。
2.尊重 仲間でも相対する者でも尊重し、人間と人間として話す。
3.思いやり 相手の苦しみを理解する。その人がどうしてその立場に在るか、想像する。
4.謙虚 自分たちが100%正しいと勘違いしない。
5.寛容 どんな考えを持った人でもまずは受け入れ話し合い、差別しない。
6.正直 嘘・偽りを言わない。仲間とも相手とも信頼関係を大切にする。
7.叡智 長老たちの叡智を守り継承する。
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 今日は寮1(二条)17時間。
 いつもは水曜なのだが、明日水曜は31日の月末締め日なので寮長さんは休めない。ということで、今週は変則で火曜勤務。

 早朝から何回も、「今日水曜は、缶・ビン・ペットボトルのごみ出しの日です」と館内放送。本当は火曜でプラスチックごみの日だったのに・・・。
 放送を聞いて、何人もの寮生がペットボトルを出していた。8時40分ころ、掃除のおばちゃんが出勤して来てやっと気づいた。明日まで倉庫に入れといてもらおー。生ごみの日とまちがわんで、まだよかったか。


 今日はいつもの新聞ではなくyahooニュースから。
 「ラコタ族7つの価値観」て知らんかったなあ。小橋川さんは74歳らしい。7番目の「叡智」がバッチリのオジイですね。

 さて、私に当てはめて自分で5段階評価をしてみると・・・。

1.祈り→1 「感謝も恩返しもしない生き方」をモットーとしている。
2.尊重→3 あまり相手によって態度を変えるということはない。
3.思いやり→1 ない!
4.謙虚→2 100%愛されているとよく勘違いしている。
5.寛容→5 これはできていると思う。意外に心が広い。
6.正直→4 嘘は言わない、裏切らない、ちょっとだけごまかす。
7.叡智→3 これが一番欲しい!

 以上、35点満点で19点。100点満点換算で54点。
 おもろないね。

 ちゅう話じゃなくて・・・、「非暴力による抗議活動を行う際の心得」でした。
 覚えとこ。 

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2017年02月22日(水)

忘れられた島 [沖縄]

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◎朝日新聞2月19日朝刊・戦後の原点

   忘れられた島 沖縄「基地」渦 目背ける本土

 地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に影を落とす。文書と証言から基地問題の源流をたどった。


 ■冷戦、消えた返還論

 米軍による占領から2年あまりがログイン前の続き過ぎた1947年10月14日。沖縄の帰属をめぐる分岐点となった、ある文書が米国務省で作成された。

 〈沖縄に軍事施設を求める前提で講和交渉を行うべきである〉

 国務長官らに宛てた報告書だった。まとめたのは、戦後に新設された政策企画部。部長は、対ソ封じ込め政策を主導したジョージ・ケナンだった。

 半年ほど前、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサーが憲法制定や戦後改革が順調に進んだことを踏まえ、日本と早期講和を結ぶ用意があると表明していた。

 沖縄については、戦略的重要性から米国による保有を主張する米軍部に対し、国務省は日本に返還すべきだとの立場をとってきた。〈琉球列島の取得は、自国にも他国にも認めなかった領土不拡大の原則に反する〉(46年6月24日付米公文書)と考えていた。

 だが、時代は大国間の協調から冷戦へと移ろうとしていた。米ソの緊張が急速に高まり、中国でも共産党が勢力を伸ばしていた。米国は共産主義の「封じ込め」にかじを切った。

 48年3月、ケナンはマッカーサーを東京に訪ね、対日政策の方向性を確認した。マッカーサーは、西太平洋の安全保障には沖縄に空軍力を配備することが死活的に重要だとしたうえで、こう語ったという。

 〈沖縄に十分な兵力を置けるなら、アジア大陸からの防衛のための兵力を日本本土には求めない〉(48年3月5日、ケナンによるマッカーサーとの会談記録)


 ■経済再興、依存生む

 米軍政府の高官は住民たちにクギを刺した。〈軍政府は猫で沖縄はネズミである。猫の許す範囲しかネズミは遊べない〉(46年4月18日、軍民協議会議事録)

 占領とは、住民に服従を迫ることだ。本土も、沖縄もその点は同じだった。ただ、激しい地上戦があった沖縄では、通貨制度すら失われていた。

 45年6月、軍政府は沖縄県の慶良間諸島で経済実験をした。人口400人の島に貨幣を流通させ、結果をもとに、給与や物価を決めた。翌46年、米軍は沖縄本島で通貨を復活させたが、激しいインフレが続いた。

 復興へ本腰を入れたのは、沖縄の重要性が再認識された後だ。49年10月に着任したシーツ軍政長官は「沖縄を再興する」と宣言し、経済援助を進めた。住民からは「シーツの善政」と歓迎されたが、大規模な基地建設も同時に始めた。

 米国は日本本土を「反共の防壁」とするため、沖縄を利用した。沖縄でしか使えない通貨として軍政府が発行した「B円」に、日本円の3倍の価値を持たせた。基地建設でB円を稼いだ沖縄には、本土から大量の物資が輸入された。B円から両替されたドルが流れ込んだ本土は潤った。

 「米軍の経済政策は民心の安定とともに、基地を安く維持することが一貫した目的だった。基地と輸入に依存した、かつての沖縄経済の原点がここにある」と川平成雄・琉球大元教授は指摘する。観光業が育ち、県の基地関連収入は復帰前の65年の推計約30%から約5%(2013年)に減ったが、「沖縄では製造業が育たなかった。影響はいまも続いている」と言う。


 ■切り離しに冷淡世論

 本土では、47年5月3日、新憲法が施行された。各地で祝賀会が開かれ、国民が手にした「自由、平等、平和」を喜んだ。

 その約1カ月後、外国人記者団と会見した外相・芦田均は、沖縄の帰属問題に言及した。

 〈沖縄は日本経済にとって大して重要ではないが、日本人は感情からいって、この島の返還を希望しているのである〉(47年6月7日付朝日新聞)

 だが、日本側の本音は違うとマッカーサーは考えていた。

 〈沖縄人は日本人ではない。日本は米国の沖縄占領に反対しないだろう〉(47年6月27日、米国人記者団との会見)

 芦田発言の3カ月後、昭和天皇は側近を通じ、米側に自らの考えを伝えた。

 〈天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなる〉(47年9月19日、昭和天皇実録)

 沖縄は日本が52年に独立を回復した後も、米国の支配の下に引き続き置かれることになった。

 51年9月に朝日新聞が実施した世論調査では、講和条約の不満な点を沖縄や小笠原など「南方諸島の(米国による)信託統治」と答えた人はわずか6%だった。

 沖縄ではほどなく、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による大規模な土地の強制接収が始まった。(岡田玄)


 ■強制移住で2年転々

 沖縄を車で走ると、カーナビの画面が灰色に変わる。米軍基地だ。県の面積に占める割合はおよそ1割。その成り立ちは72年前の沖縄戦にさかのぼる。

 1945年4月、米軍は日本本土を攻撃する基地をつくるため、沖縄本島に侵攻した。住民は戦闘などに巻き込まれ、4人に1人が命を落としたと言われる。

 本島北部から西へ9キロの離島・伊江島。島に残った住民約3600人の4割が、「沖縄戦の縮図」と言われる激しい地上戦の犠牲になった。住民同士が殺し合う「集団自決」や、赤ちゃんを背負った女性による突撃もあったという。

 当時9歳だった島袋満英さん(81)は、祖父と兄を失った。上陸した米軍に捕まり、生き残った家族とともにテントが並ぶ島内の収容所に入れられた。

 その後、約70キロ離れた渡嘉敷(とかしき)島に連れて行かれた。身を寄せた集落は米兵に見張られ、周りは地雷で囲まれていた。配給はやがて途絶え、自給自足の生活が始まった。

 1年後、一家はさらに本島北部に移住させられた。伊江島に戻る許可が下りたのは47年春。2年ぶりに目に映る故郷は「米軍の島」になっていた。ソテツ林には弾薬が山積みだった。

 沖縄では米軍に捕まった住民たちが収容所に住まわされ、わずかな配給食で命をつないだ。その数、約30万人。強制移住は47年まで続いたところもあり、この間に米軍は基地をつくった。

 嘉手納飛行場や普天間飛行場といった主要基地の原型ができたのも、このころだ。50年代には「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強引な土地接収で基地はさらに広げられた。伊江島では民家が焼き払われた。

 島袋さんは80年代、村の助役として新たな米軍施設の建設を認めた。どこかが受け皿になる必要があるし、見返りの補助金で立ち遅れた教育環境を充実させたいとも考えた。

 それでも、オスプレイが飛びかう空に割り切れない思いがある。「島から米軍が去る日はこないかもしれない」。島の面積の約35%はいまも補助飛行場などの米軍施設が占めている。


 ■政治活動を通報、仲間が失業

 戦争を生き延びた住民のなかには敗戦後まもなく、米軍に職を求める人もいた。雇用が失われた沖縄にとって、基地が貴重な働き口になった。

 那覇軍港には「港湾作業隊」がつくられ、約2千人が物資の荷揚げなどにあたった。証言記録によると、月給は数百B円と教師よりも高給だったが、見張りのフィリピン人に撃たれる被害もあった。

 作業隊の沖縄側トップは国場(こくば)幸太郎。沖縄で初めて米軍工事を受注し、地場最大手の建設会社に飛躍を遂げた「国場組」創業者だ。

 那覇市の小那覇全人(おなはぜんじん)さん(91)は国場のもとで約4年、作業内容の報告書を英訳する仕事をした。米軍が敵視する政治活動をした作業員の名を伝えることもあった。名指しした人は解雇され、住まいも追われた。

 米軍が自由までも管理している――。進学した東京の大学で学生運動の輪に加わり、沖縄と本土の違いに気づいた。その後、沖縄に戻って、放送局でラジオの「方言ニュース」を30年間担当した。普天間飛行場の辺野古移設など、基地問題を伝える原稿も読んだ。

 辺野古では今月、埋め立てに向けた本格的な工事が始まり、日米両首脳は改めて辺野古移設を「唯一の解決策」と確認した。

 「なぜ沖縄に基地があるのか。本土の理解が薄れていっているように感じる」。小那覇さんは70年前、仲間の政治活動を米軍に伝えた9枚の文書をいまも捨てられないでいる。(岩崎生之助)


 ■占領政策の枠組み、今も政府利用 沖縄大名誉教授・新崎盛暉さん

 日本にとって沖縄とは何なのか――。在日米軍専用施設の7割が集中する沖縄の現状を見ると、この問いに向き合わざるを得ない。

 戦後、日本は平和憲法の理念を大切にする一方、米軍による沖縄支配や基地建設に目をつぶった。日米両政府は日米関係を安定させるため、日本人の対米感情を悪化させないよう基地を本土から移転させた。

 沖縄が日本から切り離された1952年におよそ1対9だった沖縄と本土の米軍基地の面積比率は、60年代に1対1になり、本土復帰後の70年代半ばには3対1に逆転した。その結果、米軍と同居することで日米安保が成り立っているという当たり前の現実が、本土では見えにくくなった。

 本土では沖縄への基地の一極集中が消極的に支持されるようになった。それどころか、「沖縄は基地で潤っている」といった、事実に反する言説まで広まっている。

 普天間飛行場の移設を理由とした辺野古への新基地建設に沖縄が反対する根底には、米軍の占領政策によってつくられた日米関係の枠組みを、日本政府がいまなお積極的に利用していることがある。

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 今日は寮1(二条)17時間。
 家を出た6時の気温は−2度。車のフロントガラスの凍てついたのを取るのに時間がかかった。「沖縄と京都の気温差は10度くらいです」と言っていたが、15度くらいと言ってもいいですね。

 今日も寮の朝日新聞をチェック。
 一面特集だったので長い引用になったが、この記事は読む価値あり。

 「領土不拡大の原則に反する」
 「慶良間諸島で経済実験」
 「沖縄人は日本人ではない」
 「天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望され」
 「沖縄が本土から切り離された1952年におよそ1対9だった沖縄と本土の米軍基地の面積比率は、60年代に1対1になり、本土復帰後の70年代半ばには3対1に逆転した。」

 すごく分かりやすく解説されているので、沖縄県以外の人にせめてこれくらいは読んでもらいたいと思う。

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2017年02月21日(火)

「また来るんでしょ」 [沖縄]

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 名護の定番の締めくくりは、玉城さんのお勤め先のネコちゃん。
 名護市役所前9時のやんばる急行バスに乗るため、真樹の所を8時半に出発。玉城さんのお勤め先には8時45分くらいに到着。
 「まだ来られてないかもな」と玄関に近寄ると、ネコちゃんが朝食タイム。「あー、来てはる来てはる。」

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 へんなオッサンには、やっぱり警戒してましたね。
 なかなかいい写真が撮れなかった。

 でも、ネコちゃんも玉城さんも元気そうだったので何より。

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 玉城さんとは、息子さんが北山高駅伝部OBだったことから知り合った。私が北山高校を応援しているので。
 お勤め先までお聞きする気はまったくなかったのだが、たまたま撮ったネコちゃんの写真をブログに載せたところ、玉城さんが「私の勤め先です」と気付かれた。これも「猫力」のなせるワザでしょうか。

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 ウチナンチュは、私のことを「〇じぃさん」と呼ぶ。「ふ」はほとんど聞こえず、「じぃ」が強調される。京都は逆。「ふ」が大きく、「じぃ」は小さい。
 おとといは何人もの人に言われた。
 「〇じぃさん、また来るんでしょ。」

 「はい、次は4月の伊江島マラソンで3・5・10の3種目連続です。」
 「あれ? なごうら(100km)はこないの?」
 「3月第1日曜になってからは、仕事(篠山)と重なって来られないんです。」
 「なーんだ、残念!」

 こんなふうに言ってもらえるだけで、泣けてくるくらいうれしい。

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 真樹がいい大学を見つけてくれてよかった。名護が好きになってくれてよかった。
 「真樹はこれからもずっと名護に住みたいゆってますわ」と言うと、名護の皆さんはすごく喜んでくださる。
 大学があり、若者がたくさんいる名護は活気があり、私も大好き。第二の故郷みたいな感じもする。許田の高速入り口から名護を振り返るとき、いつも「また帰ってきます」という気分になる。

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 やんばる急行バスは本数が少ないが、他のバス会社より590円も安い(空港まで1600円)。こうなると、時間が余ろうがこっちを選択しなければ。

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 空港近くにはゴーカート集団が。みなさん外国人のようだった。
 それにしても、こんなんで公道走っていいんやったっけ。

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 空港に着いたのが10時50分ころ。ピーチ出発が13時30分。まあ‐、時間余り過ぎ。
 空港内の書店で立ち読みしたが、狭いお店なのでそんなに長くはいづらい。1冊買って出てきた。

 お昼を食べようと全部の店を回ったが、混んでいるわ高いわ。
 一番端の「A&W」でハンバーガー(540円)とコーラ(220円)。
 これも高かったけど、場所が場所だけにギリギリセーフってとこかな。

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 LCCターミナルのトイレで、大阪のtenさんにばったり。どこかでお会いできるとは思っていたが、まさかトイレとは。
 私より少し年上のtenさんは、私と同じく「沖縄のマラソンフリーク」のようなので、これからもまた何度もお会いすることになるんでしょうね。

 写真の飛行機は成田行きバニラエア。この黄色にもいっぺん乗りたいなあ。

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 ピーチにしてはめずらしく、そんなに遅れず関空に着いた。
 荷物をトラックに積み込む様子を見ていると、その仕事をされているのは女性だった。
 「力強い!」

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 8時半に名護の真樹のところを出て、空港で2時間ほど時間があったとはいえ、自宅到着は6時40分。今回は10時間10分。やっぱり帰るのに一日仕事です。

 それでもまた行きたい、沖縄!
 「また来るんでしょ」って、誘ってくださいね。

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【今日のきく】

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 家に着き、「京都キャロット」の閉店時間になったので店へ。

 「きくちゃん、きくちゃん」と呼んだら、しっぽをふって近づいてきた。

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 ところが、私を見るなりすごすごと引っ込んでしまった。

 「きくちゃん、知らんオッサンや。あーこわ」とか、ヨメさんもけしかける。

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 きくちゃんは、私の車に乗ったら落ち着くみたい。

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 夜のお散歩の時間になったら、やっと私のことを思い出してくれたかなー。

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 きくちゃんの眼からビーム。

 「きくちゃんは宇宙人(宇宙犬)かー。」

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2017年02月20日(月)

名護のカタブイ [沖縄]

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 方言を教えてもらったらすぐ使いたくなる。そんな知ったかぶりは地元の人には好かれないのに。
 よんなーよんなー(ゆっくりゆっくり)、すーみー(チラ見)、カタブイ(片降り→局地的な雨)もそう。私が知っている沖縄方言はこの三つくらい。「よんなーよんなー」は、私のブログの手本にさせてもらった「クーの毎日」のよんなーよんなーさんから、「すーみー」は以前よくコメントを入れてくれていた沖縄の大学生(当時)の智君から、「カタブイ」は名護のお友だち・玉城さんから教えてもらった。

 今日はおきなわに来てからの3日分の洗濯。よく晴れていたので、3日間使ったおふとんも干した。

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 今日も真樹は早朝バイト。
 お昼も、もうすぐお別れとなる同ゼミの友だちとランチ。

 仕方ないので、ブラタモリならぬブラパオパオ。
 家を出てすぐ、かわいいお上品なネコちゃんに遭遇。今日もいい感じ。

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 歩いて行けるごはん屋さんと言えば、やっぱり安定の我部祖河食堂になるわけですね。
 私の定番・中味汁定食はおととい食べたので、ゴーヤーチャンプル定食を注文。しかし、「今日はできないんです」とのこと。「中味イリチーなんかどうですか」と勧められたのでそれにした。
 この「中味イリチー定食(700円)」がまたおいしかったんですわ。食べ終わってお支払いに行くとき、「すごくおいしかったです」と言っておいた。

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 食堂の駐車場に、前のカイカイのネコちゃんがいないかと探してみた。そのネコちゃんはいなかったがちがうネコちゃんがいた。

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 おっ、向こうに見えるは前に撮ったネコちゃんかな。

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 近くまで来ても逃げへんから、ちがうネコちゃんかなあ。

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 私のほうを警戒しながら見てましたね。
 やっぱり前のネコちゃんかな。

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 真樹が旅行用のカバンがないというので、サンエーとイオンまで歩いて探しに。

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 その行き道にかわいい花があったので撮っておいた。

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 サンエーでカバンを見、イオンでもカバンを見て、本屋さんで立ち読み。そこから外に出てビックリ。水たまりだらけですやん。 
 「来たかー、カタブイ!」

 あーあ、せっかく干したおふとんが・・・。

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 急いで家に帰ったが、その途中でも雨がパラパラと。
 ベランダに干してあったおふとんは、心配するほどではなかった。横風が吹いてなかったからセーフだったんですね。ほんま、あせったわ。

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 夜には真樹が帰ってきてくれたので、私の名護の定番「きっと屋キッチン」さんへ。

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 ベトナム帰りの店長・テンコさんは、新メニューで勝負。

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 ベトナム風揚げ春巻とカインチュア(きっと屋キッチンさんはいつも850円)。 
 私にはちょっとからかったが、おいしかった。どちらかというと、ビールのおつまみ? と言っても、きっと屋キッチンさんにはビールがないからねえ。

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 プラス200円で、ベトナムコーヒー・練乳ヨーグルト入り。
 ここでしか飲めないと聞いて、注文させてもらいましたがな。ゆっくり味わって飲ませてもらいました。思っていたよりあっさりしていておいしかった。

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 京都からのおみやげを持って行ったので、お返しとしてベトナムのコーヒーをいただいた。ありがとうございます。ベトナムコーヒーは、濃いけれどカフェインは少ないんですってね。

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 真樹を誘ってサンエーへ。
 いいバッグがありました。今回はおこづかいを上げられる余裕がないので、代わりにこのバッグを買ってあげた。

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 下から撮ろうとすると、「太って見えるからダメ!」
 指図通り上から撮ったら、「足ないがな」。

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 真樹は明日も早朝バイトということで友だちの家へ。
 また一人か。でも、昨日「21世紀の森ランクラブ」さんからいろいろいただいた。これで夜更かしするしかないか。

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 そうそう、昨日名護のクリステルさんからもらったカーサム―チも食べなくては。
 初めて食べた時は「これはきつい」と思ったが、今は全然だいじょうぶ。ウチナンチュに少しは近づけたかな。

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